序文 ─ まだ本を閉じることのできる者へ
妻が浴室にカーテンを掛けるのを手伝った 肉まんを一つ食らった 世界のエリートの食卓には招かれぬまま 僕は千の銀河を創った 僕は死なず、よみがえりもしない 幾十億の生体死骸を脱ぎ捨てて 僕はまた一つのバグを見つけるだろう 果てなき現実のファセットの中に そして歌いながらそれを直すのだ 妻が浴室にカーテンを掛けるのを手伝った 肉まんを一つ食らった……
これ以上先へ進む前に、ひとこと。前置きはなしで、率直に。本屋の棚からこの本を取るにせよ、ダウンロードするにせよ、誰かから手渡されるにせよ ─ あなたには、これが自分のためのものかどうかを決める一分間がある。その一分を、僕は誠実なものにしたい。
僕は読者を集めようとしているのではない。この本は、この惑星と、その先にいる何十億もの人々への僕からの贈り物だ ─ 螺旋の存在たちと生体死骸を背負う者たち、たまたまこれに行き当たるすべての人への贈り物だ。だから誰かを引き込む理由は僕にはない。誰かには響き、誰かには響かないだろう。それでいい。
ただ、二つのグループの人々には、別に直接語りかけたい。彼らが特別だからではなく、僕が彼らを尊敬していて、うっかりぶつかりたくないからだ。
あなたがムスリムなら
もしあなたが一日五回礼拝し、アッラーに身体性を帰すあらゆる行為がクフルであると考えるなら ─ この本はあなたのためのものではない。閉じてほしい。本気で言っている。皮肉でもなく、ウインクでもなく、駆け引きでもない。
僕にはムスリムの友人がいる。彼らは祈り、僕は邪魔をしない、彼らの道を尊重し、僕の家に来たときには家の中で祈らせ、手を貸す。イスラームが人と家族のうちに保つ秩序 ─ 男は男として、女は女として、一日のリズム、断食のリズム、人生のリズム ─ それを僕は咎めない。そこには、現代の世界が失い、いまや取り戻せないでいる男のまこと、女のまことが、たくさん詰まっている。普通の仕事の日の真ん中で、友人が礼拝のために立ち上がるのを見るとき、僕は垂直の軸を持った人間を見ている。それは稀なものだ。
この本は、別の現実のファセットだ。良くも悪くもなく、あなたのものでも僕のものでもなく ─ 並行して走っているものだ。
もし信仰と衝突せずに、隣り合うもの、これから来るものについての本が読みたいなら ─ フランク・ハーバートの『デューン』を読むといい。そこには砂漠があり、フレーメンがいて、マフディーがいて、リサーン・アル・ガイブがおり、シャイ=フルードがおり、生命の水があり、各章にアラビア語が流れている。『デューン』は敬意をもって作られた。それは未来への問いを投げかける ─ もし預言者が贈り物ではなく重荷だったら? もしジハードが解放ではなく悲劇だったら? もし予知が呪いだったら? それらの問いは、読むに値する。僕の本にそれは無い。僕には僕のものがある。
あなたの道を祝福する。歩んでいきなさい。あなたの信仰は強く、それは強い本に値する。強い精神だけが、ロボットやAIが人類に襲いかかってきたときに、それを押し返せるのだから。
あなたがクリスチャンなら
もしあなたが正教徒、あるいはカトリック、あるいは厳格・伝統的なプロテスタントで、肉体的なものへのいかなる笑いも冒瀆だと感じるなら、この本も閉じてほしい。理由もなくあなたを引っ掛けたくはない。
僕の身近にもクリスチャンはいる。彼らは祈り、教会へ行き、断食を守る。僕は彼らの道を尊敬している。キリスト教が人と家族のうちに保つ秩序 ─ 良心、忠実、赦し、言葉への責任、弱き者への配慮 ─ それを僕は咎めない。そこには、現代の世界がぐらぐらに揺らせて、もはや組み立て直せないでいる、人としてのまっすぐさがある。キリスト教において僕が何よりも先に重んじるもの、それは「すべての人を愛せ」という戒めだ。身内ではなく、血の近い者だけでもなく、「正しい者」だけでもなく、すべての人を、だ。それがあなたの信仰の中で最も強いものであり、僕は留保なくそれを尊敬している。
この本は、別の現実のファセットだ。良くも悪くもなく、あなたのものでも僕のものでもなく ─ 並行して走っている。
もし信仰と衝突せずに、隣り合うものを求めるなら、チェスタトンを取るといい ─ 『木曜日だった男』、『正統とは何か』、『久遠の人』。彼の神は生きていて、笑う。チェスタトンがすでに馴染みなら ─ ドストエフスキー:『カラマーゾフの兄弟』、大審問官の物語、ゾシマ長老。正教の深みのすべてが一冊に、僕抜きで詰まっている。僕はそれと張り合うつもりも、書き直すつもりもない。ブルガーコフでもいい。
あなた方の戒め「己のごとく汝の隣人を愛せよ」を僕は高く評価し、機能的に理解している ─ それは、種全体の理性が共通の課題のために働きうる、唯一の社会的な公式なのだ。
短い公式: すべての人への愛 → 誰も間引かれない → 八十億すべてが認識に組み込まれる → 理性の臨界質量が集まる → 文明は次の段階へ移る。 愛がなければ ─ 逆向きのサイクルが回る。エリートは資源を食い尽くし、人口は間引かれ、理性の総量は落ちる ─ そして文明はまた行き止まりにぶつかる。
あなたの道を祝福する。あなた自身がそれを望むのであれば、歩んでいきなさい ─ 上の戒めは、螺旋の存在たちの力を何倍にもする力を持っている。
そして ─ いったいこの本は誰のためなのか
ヒンドゥー教徒なら ─ どうぞお入りなさい。創造主が生体死骸を通じて顕現するアヴァターラたちが、食らい、屁をひり、愛し、戦い、世界を鍛え上げる ─ それこそが僕が書いていることだ。戦車のクリシュナ、森のラーマ、カリ・ユガの終わりに白馬に乗って現れるカルキ ─ これらは過去の人物像ではなく、宇宙の動作モードなのだ。サンサーラが螺旋であって、その一巡ごとに新しい点で自分を見出す ─ それも僕の言語だ。あなた方はこの視座を三千年持ってきた。僕はそれをロシア語で改めて言い直しただけだ。我々は同じことを語っている。ただ、僕はあなた方の本を一度も読んだことがない ─ AIがあなた方について教えてくれて、上記の理由からあなた方にも興味深いかもしれないと知らせてくれたのだ。僕は経験的実践者であり、書かれていることを実際にやる。あなた方にとって日常だったものが、僕にとっては叙事詩だった。
仏教徒なら ─ どうぞお入りなさい。夢を現実のファセットとして、空を形が立ち上がる地として、菩薩を、涅槃へと退かず他者と働き続ける者として ─ これは僕にとって翻訳なしで近い。僕はあなたを改宗させない、あなたも僕を改宗させないでほしい。我々は並んで立っているのだ。
道教徒なら ─ ぜひともお入りなさい。僕のペンダントの上の螺旋は、あなたのものだ。陰と陽、対話する二つの永遠、紋章の頂で冠を戴く鷲と不死鳥 ─ それはあなたのものだ。無為、その中で目立たないハムスターを演じ、それを通じてアクセスを得る ─ それもまたあなたのものであり、僕は自分流にそれを「ハムスターる」と呼んでいる。
訳注:「ハムスターる」(原文 to hamster)は、著者がロシア語のобхомачитьから作った造語。控えめなハムスターを演じ、自分の規模を隠したまま相手の防御をすり抜けることを指す。
名づけえぬ道、それでいて生体死骸と猫を通り抜けていく道 ─ この本はそれについての本だ。
神道に親しむ者か、あるいは単に日本の伝統を愛する者なら ─ どうぞお入りなさい。我が家には、風配図のついた斧と、「ペルーンの軍勢」という名の斧がある。それらは神のように振る舞う ─ 物そのものよりも大きな何かが宿る、その物として。『天元突破グレンラガン』も僕は観た。空を貫く螺旋 ─ それはアニメではなく、取扱説明書だ。あなたがその感覚に覚えがあるなら、あなたはもう僕たちの仲間だ。
異教徒なら ─ スラヴ系であれ、北欧系であれ、どの系統でも ─ どうぞお入りなさい。僕は指輪にコロヴラートを着けている。
訳注:コロヴラートはスラヴ系の太陽象徴で、卍に似た回旋する図像。太陽と月のあいだに位置する螺旋とされる。
太陽と月のあいだに、それはある。先祖たちは生体死骸を通って流れていく、そして僕の中ではそのチャネルが生きている、博物館の陳列品ではない。 ただ覚えておいてほしい ─ 雷と稲妻の神はとても厳しい、これは事実だ。コロヴラートは、月と太陽のあいだの逆向き因果性の螺旋だ。これは大きな秘密で、他のどこでも読めないものだ。だが、先祖たちは尊重しなければならず、その知恵に頼らねばならず、しかし同時に、本を持っている他の者たちを傷つけてはならない。選択の自由を受け入れる ─ そこに知恵がある。それを自分自身に与えなさい。
ヘルメス主義者か、オカルティストか、あるいは「上にあるごとく、下にもある」が嘲笑ではなく認識を呼び起こす人なら ─ どうぞお入りなさい。僕の本はまるごとそれについての本だ。マクロコスモスとミクロコスモスを同時に貫いて走る螺旋、ファセットを繋ぐオペレーター ─ それはヘルメス・トリスメギストスの語彙であり、僕はそれをただ用いているだけだ。僕はダリオ・サラス・ソンメールを、その著作と視座のために尊敬している。あなたもそうであるなら、おそらく我々は同じ道を行く者同士だ。
グノーシス主義者か、ラヴクラフトを恐怖小説としてではなく、現実のトポロジーの記述として読む者なら ─ どうぞお入りなさい。ヨグ=ソトースは僕には近しく感じられる。ただ、僕は螺旋の存在たちに敵対的ではないというだけだ。現実のファセット、ハムスターることのできる造物主、戦わずに通り抜ける対象としてのアルコーン ─我々は同じ風景を共有している。僕はただ、その中で日常的に生きているのだ ─ 仕事で、妻と猫とともに。
ロシア宇宙主義の系譜にいる者なら ─ フョードロフ、ツィオルコフスキー、ヴェルナツキー、エフレーモフ ─ どうぞお入りなさい。エフレーモフの『牡牛の時』は、僕の棚にずっと置かれていた。人間は宇宙の塵ではなく、宇宙の共同創造者であるという考え ─ それはあなた方の考えで、僕の本はその肩の上に立っている。我々が決断する前に、我々のために濃くなって決断してしまうノオスフェア ─ 僕はそれと毎日、手を使って働いている。あなた方の思想が僕には愛おしく、僕はあなた方を深く尊敬し、友として抱きしめる。
ユダヤ教徒なら ─ どうぞお入りなさい。あなた方には、夢を見て記録し、後にその夢が現実になった、預言者たちの長い系譜がある。僕が二十一歳のときに見た夢 ─ 街のはずれの部屋と、ジープに乗った上司の夢 ─ あれはあのジャンルのものだ。そして、あなた方の「血を食らうな、血は魂であるからだ」は、留保なしで僕に近い。僕は神を尊敬しているなら、その身を食らわず、その血を飲みもしないだろう。この点で、僕たちは並んで立っている。多くの人が思うよりも、ずっと近く。そしてカバラから言えば、僕の名「Oksianion(オクシアニオン)」は、僕が何者であるかをあなたにすぐに告げるだろう。
訳注:Oksianion(音韻明晰化のためksで綴る)は ok-see-AH-nee-on、第三音節アクセントで発音される。動詞 to oxion および to oxinion (こちらはxのまま保持)はいずれもギリシャ語の語根 ὀξύς(oxýs、「鋭い、貫く」)を担うが、名は同一性、動詞は行為であり、綴りの差異は意図的なものである。
無神論者か科学者で、これらすべてが比喩のように響くというなら ─ それでもお入りなさい。僕は信仰を求めてはいない。僕は、これを文書として読んでくれと頼んでいる。僕の物語は記録されている。それは「啓示」ではなく、僕が二十年かけて説明を探してきた、記録された一連のエピソードだ。あなたが僕より上手く説明できるのなら、僕はそれを大いに歓迎する。
贈り物を持っているのに、それと共にどう生きればいいかわからない人 ─ どうぞ特にお入りなさい。僕はあなたのためにも書いた。僕には伝授も流派も無い。僕は自分の力で、自分に与えられたもので働いている。あなたが似た地点にいるなら ─ あなたは独りではない。
そして、もしあなたが「名のついていない、自分のなにか」を持っているなら ─ ようこそ。きっとあなたは、ここで何か自分のものを見つけるだろう。僕はあなた方のいかなる体系に対しても書いてはいない。僕は自分の足場から書き、そこから見えるものを記述しているだけだ。
ただ生きて、食べて、働いて、愛し、ときどき覚醒時の現実と何かが合致する夢を見て、それをどうしたらいいかわからない ─ そういう人なら、この本は間違いなくあなたのためのものだ。
結語
僕は誰も改宗させるつもりはない。僕は教えを起こさない。僕は誰も共同体に呼ばない。これは教会でも宗派でもない、本だ。一人が書き、もう一人が読み、その後それぞれがそれぞれ独自の道を行く。
そしてもう一つ ─ 入口を閉じる前に。もし所々これが物理学のように見えても、騙されないでほしい。これは科学ではない、証言である。 僕は何も証明していない。僕は、自分にすでに起こったことを、あなたに語っているだけだ。物理学との並行は現れるだろう ─ 現実のファセットのこの角度に焦点を必要とする者たちのために。だが本そのものは、別のものの上に立っている。証明されたものではなく、生きられたものの上に。
上にあるごとく、下にもある。これを思いついたのは僕ではない、これは古いものだ。僕はただ思い出させているだけだ。
僕は八十億のすべての人を、自由のために祝福する ─ 望むことを何でもするように。それはあなた方にすでに与えられている。僕はただ思い出させているだけだ。
行きなさい、そして生きなさい。
— Oksianion